「大正異在共芸界」と「daitai art map」 ――「だいたい」の地層に眠る理想の世界

daitai art map が産声をあげた 2025 年 5 月、たまたま同時期に開催していた、筆者が企画した展覧会「大正異 在共芸界」(WHITEHOUSE、2025 年 5 月 10 日-25 日)では、鶏が鳴声をあげていた(※1)。 この展覧会では、日本近代の芸術家らが構想した理想郷を「大正異在共芸界」と名付け、現代美術やミュージアム論などと接続させながら展望するものであった。本展会場は、東京新宿百人町、WHITEHOUSE。その誕生から今日まで特異な足跡を刻みつづける場所である(※2)。参加作家は、近代を生きた 10 人の物故作家たち。さらに、協力作家として、京島駅、新宿ホワイトハウス・WHITEHOUSE、トモ都市美術館、豊島彩花+渡辺志桜里の 4 組が出品した。 「大正異在共芸界」展で紹介した事柄は、だいたいアート(「daitai art」)の先駆的事例として捉えることもできる。たとえば、作家による制度に縛れない現場づくり(オルタナティブ、アーティストラン、DIY)、ボトムアップ型のミュージアム構想、芸術至上主義の再考など、だいたいアートとも交差する事柄を、本展は、いまから約 100 年前、およそ大正時代の実践から考えている。 本稿では、この展覧会を取りあげ、展示内容や企画企図、閉幕後の反省や展望などを紹介することで、だいたいアートマップ(「daitai art map」)に有効な視座を提供したい。そこにマッピングされる活動は、おもに「現時点で動いているもの」に絞っているようだが、それらが過去の数多くの実践のうえに存在していることは、いうまでもない。もちろん、第1弾「Article」が富井玲子による刺激的な論考であったことからもわかるとおり、すでに、だいたいアートマップ(「daitai art map」)は、マッピング以外の方法で、現在を成立させている過去にも目をむけている。同様に、本稿も「大正異在共芸界」展を語ることで、だいたいアート(「daitai art」)の下に堆積している地層を、さまざまな時制や地域を経由しながら、ぐいぐいと掘り起こしていくことになるだろう。 さっそく、本展会場にて配布していたパンフレットを参照しながら、この展覧会の様相を説明していきたい。いざ「大正異在共芸界」へ。

「大正異在共芸界」

展覧会「大正異在共芸界」(以下、「本展」)では、明治維新以降の近代社会の功罪に自覚的な者が、芸術を出発点にしながらも、それを遥かに超越しながら企図した、現実の社会や自身の生活と陸続きの理想的な場所を「大正異在共芸界」とし、その建設指向について取りあげた。具体的には、武者小路実篤の「新しき村」、西村伊作の仕事全般、尾竹竹坡の北海道での活動、横井弘三の「理想郷」、有島武郎の農場無償解放、宮沢賢治の「羅須地人協会」、竹久夢二の「榛名山研究所」など、近代に生きた 10 人の芸術家らの企図を紹介した。これらは、従前の研究において、いっぱんに「理想郷」という言葉によって、個別に説明されてきた。

彼らは、目の前の社会から完全に逃避したわけでもなければ、資本主義の社会を完全に否定したわけでもない。むしろ、現実と適切に付きあいつつ、みずからの理想を追求した者たちで、まさに「異在」的といえるだろう。また、本展では、理想空間の建設を試みた人物のなかでも、とくに、芸術と共に生きた人物、すなわち生活と芸術の両者を切実に考え抜いた者の発想に焦点を絞ることにした。いずれも、自身の芸術を追求したさきに生活があり、自身の生活の延長線上に芸術があった者たちである。彼らの企図は、芸術を起点にしているからこそ、時空間を超えた壮大な規模感をもっており、芸術を信じる者らしく、「新しい」「美しい」などの言葉で強調されてきた。この世界観を尊重するために、本展では「郷」を「界」という語に置き換えた。

あくまでも、本展が作家の仕事を「大正異在共芸界」と名付けているのであり、作家自身が自称していたわけではないことに注意されたい。また、各作家の異在共芸界は、きわめて個性的であるために、それぞれ個別に検証しなければならない点も留意する必要がある。そのうえで、この系譜を展示として効果的に見渡すために、本展では、いまだ忘却されたままのひとりの作家を召喚した。近代日本画家にして「発明狂」と評される、美術界になにかと人騒がせな、あの三兄弟の長男――尾竹越堂である。

「一大楽園公園墓地」

尾竹越堂(1868-1931)は、新潟に生まれ、富山で売薬版画の仕事を手掛けたあと、大阪や東京に移り、文部省美術展覧会に入選するなど、大いに活躍した作家であった。狭義の美術にとどまっていらない大変独創的な越堂は、興味深いことに、「一大楽園公園墓地」という構想を練っていたらしい。越堂の娘である富本一枝(尾竹一枝・紅吉)が 65 歳のとき、両親を回顧するなかで、越堂の本計画について言及している(※3)。

明治、大正期に於けるすぐれた美術家及びその作品を、後世永く伝える方法として、関東・関西の大都市に近き郊外に一里四方の土地を撰定して公園を兼ねた共同墓地を作ること、会員組織として不滅の材料を以て会員各自の墳墓を現代美術の精枠を集めて作成、銅像、石像、宝塔等を配置し、会員の希望条項は出来る限り広く之を容れ、築山を作り、泉石を配して、四時の花卉樹木を満植し、鳥獣を飼養して娯楽に供し、グラウンドを設けて、遊戯運動に当て、榭亭を設け、遺物館を建設して、遺墨、遺物、肖像、伝記、会員の一代絵巻等そこに保管する。さらに、活動写真機、蓄音器を応用して故人生前の芸術、声音、演説、談話、行動等を写し以て遺族をして永久に祖先を追憶せしむるに備ゆ――以下略―—

この計画の全容は不明であるものの、もはやミュージアムの草案的構想といえるだろう。じっさい、越堂は、東京府美術館(現東京都美術館)の建設に大変尽力した作家であった。テオドール・アドルノなどに代表されるように、美術館は墓所であるとしばしば消極的に語られるが、越堂の場合、否定的な意味合いはない。むしろ想像できるあらゆる理想を詰めこんだうえに、死後も想定した未来志向の発想には、驚異なる魅力(!)がある。本展では、この越堂の計画を展示指示書と見立て、WHITEHOUSE に「一大楽園公園墓地」の一端を現出させたのである。

[図1] WHITEHOUSE 「一大楽園公園墓地」 会場風景
[図1] WHITEHOUSE 「一大楽園公園墓地」 会場風景。

本展が紹介する各作家のじっさいの墓から採取した墓拓(墓表面の痕跡)を展示することで、共同墓地を模し、インスタレーションのような空間を立ち上げた(「公園を兼ねた共同墓地を作ること」)。

[図2] 墓拓。同様に、各作家の墓拓が展示された。
[図2] 墓拓。同様に、各作家の墓拓が展示された。

また、協力作家の豊島彩花+渡辺志桜里によって、展示会場内外に植物が配された(「四時の花卉樹木を満植」)。

[図3] 会場入口風景。茨城県石岡市の里山(旧八郷町)から採取された植物が植えられた。ただでさえアイビーに覆われてモサモサしている WHITEHOUSE に、さらに緑が増した。
[図3] WHITEHOUSE 会場入口風景。茨城県石岡市の里山(旧八郷町)から採取された植物が植えられた。ただでさえアイビーに覆われてモサモサしている WHITEHOUSE に、さらに緑が増した。

普段、京島駅に住んでいる鶏達に移住していただき、会期中会場にて飼育した(「鳥獣を飼養して娯楽に供し」)。この会場床を切り開けた鶏達の生活場所は、本展のために、協力作家である京島駅が出現させた。

[図4] 会場内中央床下。高らかに鳴くのは、普段京島駅在住の〈キャプテン〉。その鳴声は、「コケコッコー」というより「コッケコー」。かわいくも、かっこいい、毛並みもいい。
[図4] WHITEHOUSE 会場内中央床下。高らかに鳴くのは、普段京島駅在住の〈キャプテン〉。その鳴声は、「コケコッコー」というより「コッケコー」。かわいくも、かっこいい、毛並みもいい。

鑑賞者は、ときに鶏の鳴声が響く会場に分け入りながら、配布されたパンフレットを読むことで、それぞれの作家の企図や背景、その意義や価値を理解できる鑑賞体験にした。そこに詳述した各作家の異在共芸界の紹介について、本稿では割愛する。ただし、個別の異在共芸界そのものが、だいたいアートの先例だと解釈でき、示唆深いとおもわれる。ぜひパンフレットを参照していただきたい。たとえば、武者小路実篤による新しき村は、今日まで継続している(おそらく)史上最長のだいたいアートの実践現場として、記憶しておくべきではないだろうか。そこでは、文学や美術だけでなく、農業、教育、宗教など、さまざまな領域を自然に越境している。

ミュージアムへの欲望

異在共芸界を企図した人物の多くは、みずから美術館を建設しようと奔走したり、美術館建設運動に協力したり、ミュージアムに対して大きな関心を持っていた。そもそも近代の作家にとって、「美術館」とは、ある意味で、理想郷であり、非在郷である。近代以降、未来永劫に作品を所蔵し、保存しながら、展示や研究などを通じて活用する場所、すなわち近代的な美術館は、何度も立案され切望されてきたてきた。しかしながら、美術館構想が、じっさいに実現までこぎつけた例は、あまり多くはない。たとえば、作家の強い働きかけと篤志家の寄付をへて、ようやく設立した東京府美術館は、「美術館」と冠していながらも、モノを遺しつづける「美術館」ではなく、一時的に作品展示をおこなう陳列所であった。じっさいに近代的な美術館が誕生したのは、いくつかの例外をのぞけば、1951 年の神奈川県立近代美術館開館や 1952 年の国立近代美術館開館(現東京国立近代美術館・京都国立近代美術館)など、戦後であったといえる。

この近代における理想的な場所の非在を「空想」と読み替え、本展示会場の壁には、アンドレ・マルローの「空想美術館」を想起させるかのように、180 枚以上の複製図版を貼り出した。本物の芸術作品を複製の作品画像に置換することで、じっさいの美術館では並べることができない作品と作品を並べてみせ、多種多様な時空間が、ゆるやかに連関しあう、まさに博物館的な視覚体験を創出した。

[図5] 複製図版によって埋め尽くされた壁の様子。
[図5] 複製図版によって埋め尽くされた壁の様子。

具体的には、本展で紹介する 10 人の異在共芸界に関連する図版画像にくわえて、その文脈の一部を共有する、さまざまな時代の作品画像などを錯時的に展示している。たとえば、晩年の竹久夢二が愛した榛名山を描きこんだ《榛名山賦》のとなりに、宮沢賢治の水彩画をならべることで、異在共芸界の多くが山を指向することを指摘している。また、高村光太郎らによる日本最初期の画廊「琅玕洞」のとなりに、小池一子が立ちあげた「佐賀町エキジビット・スペース」、大分の「茱萸の舎」、イサムノグチ《草月会館》へと続けることで、近現代日本美術史上の異在共芸界の系譜を示す意図があった。ほかにも、千種掃雲、羽仁もと子、田部光子、岸本清子などの生活と芸術の両者を眼差していた者たちの興味深い作品図版を掲げるなど、さまざまな系譜を展開した。

この創造的な混沌のなかに身を置き、時代や地域を超えた共鳴関係を読みとることで、既存の歴史を再検討することを提案した。本展では、モノがない、すなわちイメージのみが混在する場所から芸術の歴史を検討してみたかったのである。

そして、いま・ここへ

1970 年代以降、いわゆる「美術館の時代」が到来し、近代の作家が望んでいた美術館が全国各地に誕生した。本展で紹介した異在共芸界を企図した人物に関するミュージアムも、それぞれに数多く建設されている。彼らの遺物などによって、その仕事を永久に紹介しつづける場所が現実に出現したのである。

本展では、今日において、近代の作家が望んだ美術館が理想的な活動ができているかと問うべく、作家と美術館をめぐる関係性にまで言及した。ここでは、既存のミュージアムに対する制度批判の意図はなく、より素朴に、日本におけるミュージアム(制度化された美術館、もしかしたらオルタナティブスペースも)について、思考したかった。

協力作家のトモ都市美術館、ならびにトモトシは、映像作品《すべてのアーティストは自分の美術館をもつべきだ》にて、作家が美術館という制度を巧妙に利用した事例や作家と美術館の軋轢が生じた事柄などをふまえつつ、そこからさらに一歩進んで、「すべてのアーティストは自分の美術館をもつべきだ」と謳った。トモトシ自身、自分の美術館を所持しているアーティストであるため、自己言及的な作品ともいえるだろう。この映像作品のなかでも、トモトシが声をかけた数多のアーティストが、それぞれ自身の美術館設立を誇らしく掲げた様子は、印象的であった。

[図6] トモトシ《すべてのアーティストは自分の美術館をもつべきだ》展示風景。
[図6] トモトシ《すべてのアーティストは自分の美術館をもつべきだ》展示風景。

WHITEHOUSE の「遺物館」

そして、本展は、本会場の WHITEHOUSE に眠る遺物とともに幕を閉じる。かつて、ここは、1960 年代に活躍したネオ・ダダの実質的なリーダー吉村益信の自宅で、ネオ・ダダの活動拠点であった。通称「新宿ホワイトハウス」とよばれる本建築は、磯崎新がはじめて手掛けたことでも知られているが、その一部に、吉村自身が増築したと考えられる部屋があり、そこに吉村による壁画がのこされている。石膏をもちいた、アンフォルメルといっていいような、実験的な落書きともいえる表現が、壁にも天井にも。これまでほとんど公開されていない、大変貴重なものである。

また、吉村のあと、ここに住んだ画家・宮田晨哉の絵画作品も、現在までこの場所に数多く遺されている。その作品をみれば、美術史上の名高い作家や同時代の表現動向を機敏に摂取し、多様な様式を展開した作家だったと想像できる。

この吉村の壁画にかこまれた部屋のなかに、宮田作品を数点展示し、本展で紹介した異在共芸界を企図した作家のミュージアムの断片が並ぶ「遺物館」を出現させた(「遺物館を建設して(中略)永久に祖先を追憶せしむるに備ゆ」)。

[図7] 「遺物館」風景。
[図7] 「遺物館」風景。
[図8] 「遺物館」風景。
[図8] 「遺物館」風景。

本展の目指したところ

さて、この展覧会の企画意図を説明しておきたい。本展は、現在の芸術活動の先駆的事例が、我々の足元に眠っていることを示している。たとえば、本展で扱う異在共芸界が都会を逃避し、近代文明から距離をとる指向は、エコロジーや人新生に関する議論と同様の問題意識があるだろう。また、生活の芸術化、芸術の生活化を試みる作家の実践は、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻、岡本太郎の戦後の活動、アール・ブリュット、ソーシャル・エンゲージド・アート、カタスタトロフへの応答などの話題を先取っている。あるいは、異在共芸界が運動体や共同体を指向していることを考慮すれば、リレーショナルアート、コレクティビズム、地域アートなどにも繋がる話題だろう。

くわえて、本展は、近代美術と現代美術の断絶を埋めること、現存作品にもとづく実証的な美術史の語りでは漏れおちる事象を捉えなおすことを、強く意識していたことも記しておきたい。

もちろん、本展の意義は、けして狭義の美術にかぎったことではなく、より広く、現代社会を生き抜くうえでも、大変示唆に富んでいるだろう。時代や他者と適切な距離を保ちつつ、自身をゆるやかに変容させてきた芸術家の理想は、芸術を起点にしているからこそ、そこを遥かに超越し、現在において、ひじょうに突き刺さるものがあるのではないか。

本展を終えて 

本展は、想定よりも多くの方々にご来場いただき、おおいに話題にしていただいた。とくに普段あまり美術を鑑賞しない方も、数多く足を運んでくださり、丁寧に観覧してくださったことは、嬉しいかぎりであった。また、武者小路実篤や宮沢賢治を取りあげたことから、読書愛好家や古書店員など、美術よりも文学に関心ある方や、参加作家が設立した学校の卒業生の方など、幅広い方々に観ていただけて幸いであった。美術史において有名とはいえない展示内容を懸念する声もあったが、それは美術史の問題であって、結果的に多くの方にそれぞれの関心にひきつけて楽しんでもらえた。それこそが、展覧会としての魅力だろう。

本展覧会の反省は、数えきれないほどにあり、今後さらに調査研究するべきことも浮彫りになった。たとえば、キュレーションの核としてもちいた思想の有効性は、さらに吟味しなければならない。本展では、「理想郷」「非在郷」「異在郷」「美術館」「ミュージアム」など、意味の幅が広い言葉のさしあたりの定義を明確にし、展示を構成した。しかし、その枠組みそのものの相応しさや正当性は、さらに丁寧に検討する必要があるだろう。本展は、これらの言葉の意味を、すこし単純化しすぎたきらいがあるかもしれない。また、本展で紹介した物故作家の選定に関しても、さまざまな批判を受け入れたい。本展の企画趣旨により適切な作家がいたり、あらゆるバランスの問題を考慮する必要があったり、今後積極的に考えたいことはいくつもある。

ただし、全体として、興味深い作家の仕事や思想を手繰りよせて、新たな文脈を導き、多様な視座と問題提起を詰め込んだ、刺激的な空間を現出できたと自負している。越堂が夢見ていたように、優れた作家および作品を、現在に生きる多くの人々に伝えることができたのではないだろうか。もちろん、越堂の考えていた「一大楽園公園墓地」構想は、本展とは比較にならないほどの偉大なスケールであって、到底叶わないのだが(※3)。

本展は、オルタナティブな(これまでとは異なる方法による)近現代日本美術史の展示実践であった。いまこの瞬間にも表現が生まれているいわゆる現代美術とはちがい、近代に生きた物故作家の仕事を制度化されていない場所で展示表象することは、なかなか難しいことである。たとえば、だいたいアートマップ(「daitai art map」)に掲載されている場所で、「近代日本洋画展」や「横山大観展」は、余程のことがないかぎり、実現できないだろう。だからこそ、本展は、ホンモノの無さを強調した展示空間を現出させたが、今後の展望として、じっさいの作品も並べることで、本展の視点をよりいっそう深めることを掲げたい。美術史上の現存作品と、作品としては現存していない作家の仕事のどちらにも等しく目をむけ、今日に生きる意欲的な作家と協働しながら、大胆に美術史を展望する機会は、ますます意義を発揮するにちがいない。その実践は、既存の美術史の記述を見直すと同時に、時空間を越えた作品同士を共鳴させることになり、幅広い表現者や鑑賞者を刺激することができるのではないだろうか。

おわりに 

さいごに、本稿執筆時にも参照している「大正異在共芸界」展の会場で配布していたパンフレットのプレゼントのお知らせをしたい。本展で紹介した洋画家の横井弘三は、宣言書「美術の革命」や自著のなかで、ゴッホの墓に咲いていたひまわりの子孫の種、閉幕した展示の出品目録、過去に出版した自伝、そして自作までも、送料入の封筒を横井に送れば、希望者に対して、無償贈呈(一部物々交換)する旨を記述している。横井の慈愛、すごい壮大。この精神に敬意を払い、筆者も希望者に対して、パンフレットを差し上げたい(※4)。

「何となく、この冷やかな競争の世界に、1つの小さい理想郷で、温かき人間味があつて、清い、よい企と思ひます。」(横井弘三『油絵の手ほどき』博文館、1926 年、P397)

本稿では、「大正異在共芸界」展を語ることで、だいたいアートマップ( 「daiti art map」 )と響きあうところを指摘した。だいたいアート(「daitai art」)の下に広がる地層には、芸術家による理想の世界への企図が存在し、それらを有機的に結びつけた「大正異在共芸界」展は、今日の興味深い活動を把握するうえで有意義な視座のひとつであっただろう。今後も、だいたいアートマップが、マッピングを含めた多様な方法で、より多彩な時空間の活動に目をむけていくことに期待したい。拙筆ながら、本稿がだいたいの理解の一助となれば幸いである。

(※1)本展は以下のとおり開催された。また、ここでは名前を記すことを控えるが、本展の開催と運営にあたり、ご協力いただいた数多くの方々への感謝も忘れていない。
キュレーター:阿部優哉。オーガナイザー:卯城竜太。参加作家(五十音順):有島武郎/尾竹竹坡/佐藤春夫/立原道造/竹久夢二/西田天香/西村伊作/武者小路実篤/宮沢賢治/横井弘三。協力作家:京島駅/新宿ホワイトハウス・WHITEHOUSE/トモ都市美術館/豊島彩花+渡辺志桜里。

(※2)WHITEHOUSE の詳細は、だいたいアートマップ内での岩田智哉による丁寧な紹介を参照されたい。新宿ホワイトハウス・WHITEHOUSE は、磯崎やネオ・ダダの話題が強調されがちだが(もちろん大切だが)、それらに限らない多様な歴史や意義を有しており、それらをまとめて展望、検証する機会の必要性を、本展準備中に強く感じたことも、ここに記しておきたい。そのとき、文化・歴史的に豊かな新宿百人町の土地性にも目をむける必要も出てくるだろう。
岩田智哉「WHITEHOUSE」dai tai art maphttps://daitai.art/artactivity/546/、2025 年 5 月 21 日。

(※3)富本一枝「愛者 父の信仰と母の信仰」『大法輪』第 25 巻第 9 号、1958 年、P56-61。なお、この文章は、足立元編『新しい女は瞬間である 尾竹紅吉/富本一枝著作集』(皓星社、2023 年)に収録されており、現在こちらがもっとも入手しやすい。

(※4)越堂「一大楽園公園墓地」計画の趣意書は、当時多くの人々に配布されていたとおもわれるものの、いまだ1枚も発見されていない。この趣意書には、現在把握できていること以上に、興味深い計画が綴られていると考えられ、筆者は探している。もしこの趣意書をお持ちの方がいたら、ご一報いただきたい。

(※5)希望者は、返信用封筒「角形 2 号封筒」に送料分の切手を貼り、WHITEHOUSE(〒169-0073 東京都新宿区百人町 1-1-8)まで送付していただければ、展示時に配布したパンフレット『大正異在共芸界』を差し上げたい。

[図1、2、4、5、7]撮影:涌井智仁(WHITEHOUSE)
[図3、6、8]撮影:筆者


阿部優哉
専門は、近現代日本美術史、尾竹竹坡研究
武蔵大学大学院人文科学研究科博士前期課程に在籍(2025年12月時点)