北海道とオルタナティブ

——情熱と反骨精神の系譜

「北海道はその存在自体がオルタナティブであり、北海道の美術は、昔からオルタナティブな精神に満ちていた。」

北海道とオルタナティブとの関係について、私の考えを端的にまとめると冒頭のようになる。「オルタナティブ」という用語の解釈は人によって異なるだろうが、私がそこに強く感じているのは、「既存のものではできないことを、いま、ここで、自分たちが動いて生み出していこうとする情熱と反骨精神」である。

もう少し説明を加えたい。「alternative」を辞書で引くと、「二者択一の」「代替の」「慣習にとらない、新しい」などといった意味が記されている。そうだとすれば、北海道は日本のなかでのオルタナティブな存在であるという要素がいくつも重なってくる。

ここはかつて「蝦夷地」と呼ばれ、特別な行政区分とされていた地域であった。アイヌ民族が暮らしていたこの大地は、明治期に入ると、本州など別の地域から来た日本人による移住と暮らしの基盤づくりが進められる。過酷な環境であることを知りながらも、さまざまな事情から故郷を離れ、新たな土地に希望をもってやってきた人々によって、いまの姿が形づくられてきたのである。また、北海道は、その功罪を含めた歴史はもとより、気候、自然のスケール、動植物の分布からも、本州などとは明らかに異なる「もう一つの」日本であり、そこで培われた気質にも、「慣習にとらわれない」合理性が息づいているとよく指摘される。

そして、美術もまた、独特な道をたどってきた。日本的な伝統をもたないところからスタートし、中央から遠く離れた由も重なり、ほとんど全国的には注目されないまま過ごしてきたと言っていい。しかし、上京せずにこの地に留まり制作を続けた美術家たちは、ある種の劣等感を抱きながらも、中央とは異なる、ここならではの独自性をもった表現を求めてきたのだ。すでに形成された中央中心の価値観に疑問をもち、地域の特異性を強く意識しながら、この場所で新たなものを生み出そうとしてきた系譜がここにはある。

行政に頼らず、美術家たちのみで創立、運営する大きな公募展が3つもあることや、東京を経由せずに海外と直接交流する国際美術展を美術家だけで開催してきたことなどをはじめ、自主性と不屈の精神に満ちた活動が、現在に至るまで脈々と連ねられている。そこに通底するものを、「オルタナティブ」と言っていいと私は思うのである。

さて、私は、札幌の公立の美術館の学芸員という、まったく「オルタナティブ」とは正反対の立場で長く仕事をしてきた。保身的で権威主義になりがちな組織のなかにいると、オルタナティブな活動のもつ、自由さや柔軟さ、実験的な挑戦を思いっきりできることへの羨ましさとともに、継続が保証されていないなかで活動を続けていることに対して敬意を払わずにはいられない。それは、美術館では到底できないことへの憧れとも言えるものなのだ。

これより先は、そうした思いをもちながら私が見てきた、札幌を中心とした北海道でのオルタナティブな活動のなかから、特に重要と思われるものを選び紹介していきたい。ここ40年ほどの比較的新しいものに限定されるが、そこにもやはり、この地で受け継がれてきた精神が宿っているにちがいない。

札幌のオルタナティブ・スペース

すでになくなってしまったが、札幌の文化を語るうえで欠くことができないオルタナティブ・スペースをまずは振り返ってみよう。

オルタナティブ・スペースについての説明の多くに共通しているのは、そのために建てられた正式な施設ではなく、多くの場合、もとは倉庫や校舎、民家だったところを活用し、展示や公演などさまざまな表現が繰り広げられる、非営利で地域に根ざした先鋭的な活動の場ということではないだろうか。

それにまさにぴったりと当てはまる場所が札幌で1981年に誕生している。全国的にみてもかなり早い時期のものと言える。それが、札幌の市民主導による文化拠点の始まりとして必ず挙げられる「駅裏8号倉庫」(1981年〜1986年)である。

その名のとおり、札幌駅の裏手にあった取り壊し寸前の古い軟石造りの倉庫を借り、演劇や音楽、映画などジャンルを越えた複数の団体と個人により組織された委員会が運営し、途中、移転をはさんで約4年半、活動していた。堅苦しいルールに縛られない自由な表現の場をつくり、自分たちの新しいカルチャーを生み出そうという当時の若者達の熱気に満ち、だれでも1日2万円で借りられたことや、50日間ぶっとおしで、演劇やライブ、映画上映、アート展などが続くロングランイベントを実施し、格安の通し券で全期間観られたことなどは、いまも語り草になっている。

それ以外のものも羅列していく。

・フリースペース PRAHA(1987年〜2005年)

1961年に中央区山鼻に建てられた病院の建物を、1987年から建築家の事務所やアーティストの共同アトリエとして利用。入ってすぐのフリースペースで美術展や演劇などが行われていたが、1998年からは大橋拓らが「PRAHA Project」を立ち上げ、展覧会、レクチャー、ワークショップと多岐にわたる活動を開始した。なかでも、大学生による自作プレゼン「腕に覚えあり」(2003年)や、ロジャー・アックリング(2001年)と蔡國強(2002年)のレクチャーは、当時の札幌のアートシーンに大きな刺激を与えた。

・PRAHA 2+deep sapporo(2007年〜2014年)

フリースペース PRAHAの建物の取り壊しにともない、PRAHA Projectが中央区南11条西13丁目の民家に移転し、2007年6月末から活動を再開。ギャラリーとしての作品展示のほか、除雪をテーマとしたグループ展「カナコ雪造カンパニー 除雪原風景へのオマージュ」(2008年)など、ユニークな企画を展開した。しかし、2014年秋、中心となっていた大橋拓の逝去により活動が休止された。

・あけぼの開明舎(2004年〜2007年)

旧札幌市立曙小学校跡地活用の一環として、札幌の大学生らが[あけぼの美術企画]を立ち上げ、美術関係者と協働しながら、講座やパフォーマンスなどの企画、空教室のアトリエ貸し出し事業などを行った。なかでも「あけぼの土曜美術学校」では、伊藤存、高木正勝、野口里佳、 伊藤隆介、小山登美夫らを講師に招いたが、自分たちが興味をもったアーティストやギャラリストに、いきなりメールを送り、非常に安い謝金で東京から来てもらうなど、学生ならではの無鉄砲さが面白い活動につながっていた。学生の卒業とともに活動は終了したが、メンバーのなかからは、美術館の学芸員や積極的に札幌で新たな文化活動を生み出し活動する者が出ている。

・フリースペース attic(2007年〜2014年)

狸小路6丁目の裏の、ミニシアターや居酒屋が入る雑居ビルの4階にあり、ライブ演奏やお笑い、自主映画の上映会などを含め、ディープなサブカルチャーやアンダーグラウンド的な危険な香りがする企画などをよく行っており、ネット配信もしていた。その自由さや過激さ、何でもありで好き勝手やっている感じが、いかにもオルタナティブな場だったというイメージがある。もともと5年という期間を決めてスタートしたが、残してほしいという声が多く、運営の形を変えて2年ほど維持されていた。

・OYOYOまち×アートセンター さっぽろ(2008年〜2017年)

かつて「オヨヨ通り」と呼ばれた多彩な文化の発信店が点在した裏通りに面する1963年築のビルの6階につくられたスペース。NPO法人で運営され、多目的に人々が集う場として、いろいろな大人の「部活動」が主体的に行われたり、展覧会やコンサート、演劇、トークイベントなども催された。2017年には札幌国際芸術祭のオフィシャルバーにもなったが、ビル解体のため、その年の12月末に幕を閉じた。

一方、ギャラリーのなかにも、オルタナティブ精神に満ち、札幌における現代アートの発信地としての重要な役割を担い、志を同じくする者たちを惹きつけて止まないところがあった。オーナーの逝去により残念ながら閉廊したが、次の2つの拠点のことも忘れてはならないだろう。

・テンポラリースペース(1989年〜2024年、オーナー:中森敏夫[2023年3月逝去])

北海道大学近くの古い民家を改築したギャラリー(北区北16西5)。当初は円山の花器店に併設されていたが、2006年に移転。オーナーの中森敏夫が1989年に行った「界川游行」は、札幌の現代アートにとってエポックメイキング的なものであり、さらに遡る1983年には川俣正が札幌で制作した「TETRA-HOUSE」のサポートもしている。舞踏家大野一雄や詩人吉増剛造らの企画をはじめ、全国的に活躍するアーティストの個展もよく開いており、また自分が見込んだ才能のある若いアーティストへの支援も惜しまなかった。北海道では他に見られない独自の視点と交友関係、そして実行力によって、特異な存在だったと改めて思う。

・ギャラリーミヤシタ(1990年〜2022年、オーナー:宮下明美[2021年11月逝去])

中央区南5西20の民家を改装したギャラリー。オーナーの宮下明美は、その前身となる「ラボラトリー」を1984年に始めて以来、現代的な志向の作品を制作する地元のアーティストに発表の場を提供してきた。その人柄も含めて多くのアーティストが集まり、互いに刺激し合う場ともなっていた。

それでは、現在、札幌にあるオルタナティブ・スペースはどうであろうか。近年、北海道内各地で、民家やマンション、アパート、店舗の一角などを展示空間とした「オルタナティブ・スペース」を名乗るところも増えてきている。その主だったものは、今後、この「dai tai art map」サイトの「Art Activity」にて紹介されていくことを期待し、ここでは、単なる貸しスペースではなく、骨のある企画も積極的に行い、私が特に注目しているところの名を挙げるだけに留めておく。

ギャラリーベース

 ・CAI現代芸術研究所/CAI03(2000年〜、主宰:端聡)

 ・空間(2023年〜、主宰:川上大雅、大橋鉄郎)

 ・zolin gallery(2024年〜、主宰:佐藤祐治)

共同アトリエベース

 ・なえぼのアートスタジオ(2017年〜)

 ・0地点(2021年〜)

北海道の芸術祭

芸術祭についても少し触れておきたい。いまや全国各地に拡がりを見せているが、北海道での代表的なものとしては、2014年に始まった札幌国際芸術祭のほか、2002年という早い時期に帯広競馬場を会場に開かれた、とかち国際現代アート展「デメーテル」が挙げられよう。それらは、札幌市や十勝毎日新聞社が中心となって実施されたものであるのに対して、アーティストや有志によるボトムアップなオルタナティブ色が強い芸術祭も、北海道内各地で開かれている。規模はまちまちであるが、私が知るなかで現在も継続しているだけでも、次のものがある。

・飛生芸術祭(2009年〜、飛生アートコミュニティー[旧白老町立飛生小学校])

・はこだてトリエンナーレ(2009年〜、函館市内各所)

・政和アートFes(2012年〜、幌加内町旧政和小学校)

・葦の芸術原野祭(2021年〜、斜里町旧役場庁舎)

・鉄と光の芸術祭(2021年〜、室蘭市内各所)

・ツキガタアートヴィレッジ文化藝術祭(2023年〜、ツキガタアートヴィレッジ[旧月形町知来乙小学校])

・積丹温泉芸術祭(2025年〜、積丹温泉)

なかでも、北海道ならではの気候を生かした特異なものとして、2013年から毎年2月に川湯温泉(弟子屈町)で開かれる「極寒芸術祭」に注目したい。ここで宿も経営するオーナーが主宰し、隣接する自然に囲まれた雪原と、近隣の古い建物を会場に、40点以上の作品が展示される。国内外の芸術祭にも参加する経験豊かなアーティストから、公募によって全国から集まった若手までが滞在制作し、氷点下15度以下にもなる厳しい寒さや温泉地の盛衰と向き合った、実験的表現の場となっている。

すでに終了しているが、「ハルカヤマ藝術要塞」「帯広コンテンポラリーアート」のことも記しておきたい。前者は、2011年〜2017年の間に4回、札幌と小樽の中間に位置する春香山の山麓の野地に、毎回、北海道のアーティスト50〜60人が屋外展示したものである。後者は、2011年から2018年にかけて5回、歴史的建造物や冬の防風林、廃業したホテル、河口などを舞台に帯広の現代アーティストが中心になって企画していた。いずれも、世代や地域を越えて多くのアーティストが集い、その設置環境やテーマに対するさまざまなアプローチからの作品が競演することで、とても見応えがあるものになっていた。またそれ以上に、自分たちが面白いことを皆で協力して実現しているという喜びの熱のようなものが、会場全体から強く感じられたことをいまでもよく覚えている。

最後に

戦後北海道の美術家とともに歩んできた美術評論家の吉田豪介は、その著書『北海道の美術史』(1995年)のサブタイトルに「異端と正統のダイナミズム」という言葉を用いた。それは、この地の美術は、公募展などの奔流となる動きの一方で、前衛的なグループがいくつも結成され、活発に活動しては消えていくことが繰り返されてきたことを指しているものだ。言い換えれば、既存のものに満足せず、新しいものを生み出そうというオルタナティブな精神に満ちた運動が常に存在してきたことを意味している。

これまで見てきた北海道のオルタナティブ・スペースや芸術祭などの活動もまた、この地においては、誰かが始めるのを待つのではなく、自分たちがやらなければ面白い新たなことが起こらないという、ある種の使命感のようなものをもっていたと思えてならない。かつての北海道の前衛的な美術運動と同じように、その多くが短命であったのは、もともと継続を目的とせず、その時点での熱き思いを何よりも大切にしていたからにちがいない。解体が決まっている建物を敢えて使ったため、長期間の活動ができないことを承知のうえで始められたものもある。最初から回数や期間を決めてスタートしたものも多い。逆にそうした時限付きだからこそ、いまやりたいことを全力で思いっきりできたとも言えるだろう。私が羨ましく思ってきたオルタナティブ活動がもつ情熱と挑戦的な革新性の理由のひとつは、そうしたところから発せられているのかもしれない。

何もないところから、王道となっているものとは異なる道を開こうと信念をもって挑み続けてきた系譜。北海道とオルタナティブとの関係を考えていくと、どこか未開の地に果敢に挑んできた先人たちのフロンティア精神が重なってくるのである。