日本のコレクティビズム再考 ――DIY精神のDNAを〈オペレーション〉に探る

日本の美術集団の歴史をさかのぼると、その起源は、作家たちが独自に設立していった団体展にあるという視点から、日本における現代美術の成り立ちに通底するDIY精神について、ニューヨークを拠点に日本の戦後美術を紹介してきた美術史家が論じる。

コレクティビズムと世界美術史

コンテンポラリー・アートにおける集団活動は、欧米に限らず、アジア、南米、アフリカなど世界の各地域で隆盛していて、コレクティビズムはグローバルにコンテンポラリー・アートを考察するための共通項のひとつである。しかも、21世紀のコレクティビズムは、たんにアーティストの集団化にとどまるのではなく、社会への関与を目指したソーシャリー・エンゲイジド・アート、また日本では地域との協働や参加を目指したコミュニティ・アートとも切り結んで、広い範囲で重要性をはらんでいる1*

これをどうとらえるのか。ミクロに個々のローカルな事例を調べるのは〈知〉の基本で、この特集でも基準作となるであろう事例をいくつかの地域から取り上げている。ただ、そのうえで個々のローカルな事例を大枠のグローバルにつなげていく作業も欠かせない。百科事典的に事例を集積しただけでは、グローバルは見えてこないからだ。

現在、いかにローカルとグローバルをつなげて世界美術史を語るか、というのは美術史の喫緊の課題となっている。とくにモダニズム研究では、従来の欧米中心史観を脱中心化した〈複数のモダニズム〉という考え方を軸に、これまで〈周縁〉と見なされてきた日本を含めてアジアやアフリカなど非西洋地域に配慮したグローバルな物語の追究が進んでいる。

基本的な方法論のひとつは、表面的な共通性を超えて「似て非なる」ものを比較して、ローカルな物語をグローバルな歴史の全体像につなげていく方法であり、そこからローカルな差異を踏まえたうえで、再びマクロに歴史をとらえ直して大きな構造を考える視点の獲得である。

世界美術史において、コレクティビズムほど彼我の比較を通じて日本のモダニズムが突出する特質もないだろう。しばしば指摘されているように、明治から戦前昭和にかけての美術団体、また戦後昭和の前衛集団活動、さらには近年のコレクティブなど、集団活動をたどって美術史の系譜をつくることも不可能ではない。いっぽうで、なぜそれほどまでに集団活動が盛んだったのか、という当然の疑問も考察されねばならないだろう。日本の文脈のなかだけで考えていると、あまりに当たり前すぎて見逃してしまいがちだが、世界美術史の基本となる〈比較〉をより深い理解へ結びつける鍵になる。

例えば、同時代的に具体美術協会(以下、具体)とフルクサスを考えてみよう。ともに強力な指導者(吉原治良、ジョージ・マチューナス)のもとに結集した集団だ。フルクサスが印象派からダダやシュルレアリスムへ連なるグループ活動の後裔だとすれば、具体は白馬会以来の団体展の系譜に属する。何よりリーダーの吉原は在野洋画団体の草分けである二科会メンバーで団体内団体の九室会でも主導的役割を果たしていた。この運営形態の異なる2つの集団活動のDNAがフルクサスと具体を比較する際の「語りの接線」として、それぞれをローカルな物語につなぎ留め、さらにそれらが〈接線の束〉として合わさってグローバルなナラティブを豊かにする。

ここで言うローカルな物語とは、〈複数のモダニズム〉のひとつである日本のモダニズム形成の物語であり、日本という土壌の物語でもある。つまりは〈表現〉という芸術の内側の問題(内因)のみならず、土壌を含めた芸術の外側(外因2*)をも検討することが必要になる。

モダニズムの遅延とDIY

日本におけるモダニズム形成の外因の第一は、周縁における〈遅延〉の宿命を背負っていたことだろう。モダニズムの〈中心〉=欧米から見て〈周縁〉にある日本は、〈中心〉の規範を受容しつつ、無い無い尽くしの状況から自前のモダニズム形成を目指していく。〈美術〉のみならず〈絵画〉や〈彫刻〉の近代概念を輸入し、モダニズムの共通言語である油彩画とその技法や表現を移植し、西洋化を近代化の同義語として展覧会や美術館、学校などの制度を、官主導で導入し新たに構築していった。それ以前から日本にも自前で培われていた近代的萌芽は、官主導の西洋化の波の中で変貌していった。

上からの〈官〉による制度化は、それだけでは十分でなかった3。ひとつ文展を考えても、何故に洋画部門に二科を設立しないのか(二科会の設立動機)、何故に西洋

近代洋画を摂取した日本画が評価されないのか(国画創作協会の設立動機)、など不満や批判はいくらでも出てくる。ここで何が起こったかと言えば、発表の場がないと感じた作家たちは、官展の審査・入選・受賞を軸としたサロン形式をなぞりつつも、仲間を募って自前で官展とは別の発表の場をオルタナティブに実現していった。これが近代日本で発揮された集団活動のしたたかなDIY(Do It Yourself )精神である。

既存制度に不備があるなら、自分たちで補完していくというDIY精神の発露は、展覧会事業に限らない。会員同士の研究会や外部とのネットワークを組織し、研究所で後進を育成し、機関紙を発行して評論や作家の言葉を発表して言説の場をつくり、展覧会に際しては作品販売をも担う――文展でも作品販売をしていた――など、じつに美術団体の活動の全域に及ぶ。

言い換えれば、モダニズムが日本で進展して根付いていくための動きは、上から〈官〉がつくるだけではなく、下からも作家たちの手で草の根的に、表現の次元のみならず、運営の次元でも団体という形式でオルタナティブに起こっていた。

この事実を美術史の考察に取り込むために、〈表現〉すなわちエクスプレッションと〈運営〉すなわちオペレーションの2つを作家の営為として確認したい4

表現VS. オペレーション

概して、近代的芸術観では、表現はアトリエの内での営為である。それがモダニズムの自律性を担保する。そのいっぽうで、オペレーションはアトリエの外で生起する。それは、社会との〈インターフェース〉を形成し、表現=作品を通じたコミュニケーションを成立させ、作品を社会に流通させ、鑑賞と理解の輪を広げていく。オペレーションなくしては表現は社会の根無し草だ。制度が不十分ならなおさらのこと、集団によるDIYで足場を確保し、オペレーションの拡充を図る必要性も大きくなる。これは日本におけるモダニズムの〈遅延〉が引き起こした状況だった。

このなかで、美術団体とは、会員個々人が表現の理想を共有する同志の集まりでありつつ、表現と社会のインターフェースとなる共同の足場づくりを目指したオペレーションを行う集団、と理解できるだろうか。つまり、美術団体は、表現とオペレーションの二重性を担うが、この2つが相反する使命││安定と前進││を持つところに団体展の困難がある。

そもそもオペレーションは事業体としての安定と継続を目指す。いっぽうで、表現は停滞をいとう。表現の〈前進〉は、革新に限らない。成熟や多様化も表現を〈前進〉させる。だが、日本の〈遅延〉状況が問題を複雑にする。〈遅延〉を克服するために〈新しさ〉による前進にウエートが置かれる。個々の美術団体のレベルでは、オペレーションが安定して現在まで継続することも珍しくないものの、その表現は空洞化傾向が著しいことは認めざるを得ない。これが団体後衛史観である。  いっぽうで、歴史の眼で美術団体の総体を眺めてみると、ひとつの団体が表現を前進=革新させるのではなく、新しい団体が結成されて新しい表現を主張していく。それぞれのオペレーションは安定し、官展と美術団体で形成された画壇全体として表現は前進する。すなわち、日本の近代絵画の流れは美術団体の形成史と見なしうる。これが団体系図史観である。ここまでは、既存の団体論を言い換えたにすぎない。

〈中間団体〉による大衆化

美術団体が〈官〉に対抗して求めたオルタナティブが安定化し蓄積して〈官〉の制度を下支えし、官民を合わせたより大きな構造として表現とオペレーションの厚みを持つ画壇を形成した。各団体の設立に際して会員たちが具体的にそこまで意図していたかどうかはわからない。が、結果としては、国家と個々人の中間に位置してデモクラシー形成に貢献したとされる、戦間期の〈中間団体〉に相当する役割を果たしたと見なせるだろう。社会学において「自由な結社」としての中間団体は、政治や経済、メディアなどで広く公共の利益に資する役割を担うが5、美術団体を読み直すためのひとつの視点を提供してくれる。

オペレーションという社会との〈インターフェース〉が対するのは、観念としての社会ではなく、具体的な〈観衆〉であり、〈公共の利益〉の具体的な享受者もまた〈観衆〉だろう。観衆の関与なしには、モダニズムは社会に根付かない。日本の作家たちが、遅延状況からモダニズムの形成を、表現とオペレーションの両面から手探りで進めるなか、それまで油彩画を見たこともなかった観衆もまた遅延状況から出発し、団体展とのインターフェースを通じてモダニズムの学習をしていく。モダニズムが社会に根付けば、作家への支援も増すため、作家個々人や画壇は社会と利害を共にする。

一度できてしまった制度は、表現とは別次元でオペレーションが独り歩きして続いていく。戦間期に官展と美術団体を基盤に形成された〈画壇〉は、戦後は県展や市展などのミニ・サロンも全国的に設立されて、さらに大衆化の広がりを獲得する。その意味では、美術団体は現在では「日本全国の美術ファンの根を成すような美術組織」であり、「社会現象としてものすごく重要6」なのである。

大衆化の観点から、もう一歩踏み込むなら、美術団体の〈慣性力〉=後衛的表現状況もまたひとつの社会的機能を果たしたと言えるかもしれない。なぜなら、目まぐるしく変化するモダニズムの動向を次々と見せられても、一般の観衆は戸惑って消化不良を起こしてしまうかもしれなかったからだ。もしも、観衆の側でも洋画を見るための学習に時間がかかったとすれば、それは日本の土壌にモダニズムが根付くために必要な時間だったと言うほかはない。何より、団体はひとつではなかった。オペレーションが安定して表現が一定のスタイルに落ち着いた団体がいくつもあり、それぞれに異なるスタイルを掲げていたから、古典的自然主義から印象主義、超現実主義から抽象まで、団体展へ行けばモダニズムの各様式を見ることができる、つまり毎年更新される〈生きた美術館〉になっていたのだ7*

美術団体の問題点は、戦前から指摘されていたが、戦後は民主化の希求と相まって、毎日新聞社の「連合展」など、画壇再編を目指した動きが出るとともに、サロン形式に依存する画壇のあり方そのものを問う無審査のアンデパンダン展もいくつか創設され、さらには戦前には周縁に位置していた小集団――団体展的サロンを否定し、会員のグループ展を中心に活動――もより活発になった。

具体というオペレーション

先に例として挙げた具体に一言ふれておくなら、第1回展から戦略的に秋の美術シーズンに東京での開催を図り、マスコミへのアピールを目指したところは、二科の大衆化路線に倣っている。また、とくに60年代、具体ピナコテカ創設後の第2期具体では意識的に新人の勧誘を行ったが、制度化した団体展の延命戦略をなぞっている、と読み直せるだろう。オペレーションとして具体がつくった自前の展示施設(グタイピナコテカ)も、国際化の拠点であると同時に〈安定〉の象徴でもあった。このように、美術団体のオペレーションを一部踏襲しつつ、地方サロンの芦屋市展を舞台にR&D(研究開発)を図り、吉原塾として機能した点で、小集団としての具体は団体展の亜種だと言える8

世界美術史の先端を行く表現を支えたのが団体展のオペレーションをお手本にした戦略であるという事実が、具体の〈語りの接線〉となり、具体を日本の物語につなぎとめる。そして、第1期にはDIYの革新集団だった具体が、ピナコテカ創設後の第2期 には展覧会を主要事業とする組織に変容した、とも言える9*。むろん、第2期に革新への動きが停止したわけではなかったが、制度化との二面性は美術団体の宿命でもあった。

アンデパンダン展というオペレーション

こうしたオペレーションを軸とした読み直しは、いわゆる〈前衛〉の意外な日本的一面をあぶり出す。読売アンデパンダン展が、反芸術のプラットフォームとなり、表現の次元でモダニズムに貢献した功績は、これまでにも議論されている。それとは別に、アンデパンダン展をオペレーションとして読み直したら、何が見えてくるだろうか。

アンデパンダン展は、19世紀のパリで官製サロンに対抗して開催された落選展を祖形とする。無審査のアンデパンダン展は、審査のあるサロン形式の団体展の対極として、表現の〈自由〉を体現する、と一般に理解されている。だが、オペレーションとして分析した場合、読売アンデパンダン展が中止になった後、1965年に開催された岐阜のアンデパンダン展主催者が、全国の「一匹狼」の結集として「国体のスケール」のアンデパンダン展の連鎖を呼びかけたように10*、全国規模の毎年開催を目指すなら展覧会開催はまさしく事業であり、継続を求めるなら、組織の力は過小評価できない11*。アンデパンダン展は、団体展のような安定のメカニズム(会員制とそれに伴う利益関係)がないから、なおのこと安定した運営を提供する組織がなければ、作家の力だけでは継続は難しかった。ポスト読売の自主アンデパンダン展が総じて短命だったのも、またその運動自体が短命に終わったのも、展覧会を事業として運営するのはオペレーションの次元であり、個々人の〈自由な結社〉では限界があった、とあくまで歴史として回顧できるだろう。理想と現実の乖離である。

さらには、19世紀に生まれた美術の装置が、1世紀の後に有効だったのか、どうか。〈前衛〉の立場からは、年に一度の美術館での発表という舞台を喪失したショックは大きかったとしても、実際には〈現代美術〉が主流化の傾向を強め、それまで洋画と日本画で主に構成されていた美術界に、定位置を確保しつつあったことを見逃してはならない12。その兆候はいくつもある。東京と京都の国立近代美術館の開館、とりわけ京都が毎年行った「現代美術の動向展」。長岡現代美術館の開館と同館賞展の開催。さらには毎日新聞社の現代展と国際展における現代美術へのウエートの増加。また62年に始まった現代展の公募部門に合わせて、シェル美術賞展や国際青年美術家展など、若手作家にとっての発表の場が広がっていたなど、その流れは大阪万博に向かっての盛り上がりに集約されていく。現在に比べれば脆弱であったとしても、現代美術は社会のなかで存在を主張し始めていた。

ただ、これはあくまで「歴史としての回顧」であって、自主アンデパンダン展運動を進歩史観で断じているわけでは決してない。むしろ、ポスト読売の自主アンデパンダン展運動の日本の土壌における重要性は強調してもしすぎることはない。なにしろ主流化の動きは、京都や長岡もあるにしても、もっぱら東京での出来事で、地方との格差は広がっていた。ポスト読売期に篠原有司男が「画廊の時代」を標榜して小さなグループ展を続けて企画できたのは、それを可能にするだけの数の貸画廊が身近に││つまり東京には││あったからだ。小集団のオペレーションとしては、こちらのほうが機動性も高く合理的ではあろう。だが、地方だと、そうはいかない13。そのなかで、地方の作家たちが結集して自主アンデパンダン展をDIYで企画し、オルタナティブな場を創出したエネルギーは、60年代美術のキーモーメントである。

だが、それだけではない。自主アンデパンダン運動の歴史的意義は、DIYで現代美術の作家がオペレーションを自ら担うことで、社会とのインターフェースへの意識が萌芽したことにほかならない。それが新しいコレクティビズムにつながっていく。

ひとつ、表現で確認しておくべきは、50年代半ばから行為の作品が浮上してきたことだ。これは多くの場合、表現とオペレーションが融合した形式で、表現がすなわちオペレーションとなる。わかりやすい例は、ハイレッド・センターの通称《クリーニング・イベント》(正式名称は《BE CLEAN! 首都圏清掃整理促進運動》)だ。路上清掃をすることが表現であり、それがそのまま社会とのインターフェースになるオペレーションでもある。ただし、反芸術の行為作品では、読売アンデパンダン展での美術館展示規約への違反に端的に表れているように、ーワードは確信犯的〈反抗〉だ。路上での違法行為を官憲に見つからないように行為する、見つかりそうになれば逃げる、というのがオペレーションの勘所だった。

これが岐阜の長良川の河川敷を使った展示では、条例の定める河川敷の使用条件に合わせて、作家自身が作品サイズや重量制限などの展示規約を話し合いで決めていく14。地元作家が主催者として公共の場で官公庁の許可を得て開催する展覧会のため、参加者もルール厳守が必須。その制限のなかで、なお批判精神を失うことなく挑戦的な表現をオペレーションと融合させて提示したのがグループ〈位〉の《穴》や池水慶一の《HOMO SAPIENS》だった15

ザ・プレイ――新しいコレクティビズム

ここからいくつかの〈語りの接線〉を引くことができるが、新しいコレクティビズムへの展開に焦点を当てるなら、岐阜アンデパンダン展はザ・プレイの前史のひとつ

として重要だ。岐阜からザ・プレイ結成の契機となった1968年8月の《VOYAGE:Happening in an Egg》に至るまでは、いくつものナラティブの糸が絡まっている。池水を含む大阪グループが長良川畔に出品した巨大卵を、《VOYAGE》で放流した卵へとつなぐ糸。岐阜展の《HOMO SAPIENS》から《VOYAGE》を経て独自のハプニング観を確立するに至る糸16*。これらは表現の展開であるが、興味深いのはオペレーションの糸である。表現の糸と同じく、DIYで既存の制度に頼らないオルタナティブを探る方向性が見出せる。手短かに年表にまとめてみた。

◎1965年8月

 アンデパンダン・アート・フェスティバル(岐阜)

   池水、大阪グループが参加。

◎1966年8月

 現代美術の祭典(堺)

   アンデパンダン展を「毎年国体規模で開催」という呼びかけに応じた動き。

   池水らが中心となって開催、ハプニング部門を設置した点が革新的。

◎1967年8月

 第1回PLAY展(神戸)

   ハプニングの〈展覧会〉に、池水、水上洵やガリバーなどが個々の作品を発表。

   堺のハプニング部門を独立させた試みと解釈できる。

   表現とオペレーションはまだ分離している。

◎1968年8月

  《VOYAGE: Happening in an Egg》

   表現とオペレーションを融合させた〈プロジェクト17〉形式の始まり。

   美術外の専門家などをも巻き込んだザ・プレイ型のコレクティビズムの始まり。

ここから毎夏に野外プロジェクトを行うザ・プレイの活動様式が始まり、世界美術史の名作、1977年から9年間続いた《雷》に結実する。

ザ・プレイがこうして到達した「緩やかな共同体的コレクティビズム」は、現場の経験から発想し、前例のないところで自分たちで開発していった方法だった。核になるメンバーを中心に、プロジェクトごとに美術外の専門家(例えば《VOYAGE》にアドバイスした海洋学者)や一般の人(同作品で協力してくれた地元漁業組合の人たち)を巻き込んでいく18*。メンバーの話し合いを出発点にザ・プレイがこうして到達した「緩やかな共同体的コレクティビズム」は、現場の経験から発想し、前例のないところで自分たちで開発していった方法だった。核になるメンバーを中心に、プロジェクトごとに美術外の専門家(例えば《VOYAGE》にアドバイスした海洋学者)や一般の人(同作品で協力してくれた地元漁業組合の人たち)を巻き込んでいく18*。メンバーの話し合いを出発点に、共鳴してくれる人たちとの信頼関係を築きながら、大規模なプロジェクトを実現していくプロセスは、現在のソーシャリー・エンゲイジド・アートやコミュニティ・アートの祖形でもある19*。さらにはオペレーションを安定させつつ、表現の繰り返しを積み重ねて《雷》という表現を結晶させた20*

世界美術史のなかのザ・プレイ

ザ・プレイの《雷》がウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》と同じ年、1977年に制作されていることは注目すべきだろう。落雷を待つ、という点で似ているものの、70年代美術の国際的同時性を反映して、お互いに相手のことを知らないで似てしまった典型的な〈響き合い〉の例だった21

両者の差異は様々にある。近場の自然対遠くの自然、体験の共有対孤高の体験、肉体労働者としてのアーティスト対コンセプトで発注するアーティスト、など。だがデ・マリアに典型的な〈個人〉という自律した作家性の堅持――鑑賞作法を厳密に観者に要求するところにもそれは表れている――と、ザ・プレイの軽やかな〈集団〉による協働性の謳歌という対比は、70年代におけるモダニズムの〈帰結〉が一様ではなかったことを示唆する。国際的同時性が濃厚になる60年代から70年代にかけては、ミニマリズム、コンセプチュアリズム、パフォーマンス・アートなどの流れで並行する事例は枚挙にいとまがない。だが、それは表現の同時性であり、必ずしもオペレーションの同時性ではなかった。

この時期、日本におけるモダニズムが国際的同時性を実現して一定の成果を上げたいっぽうで、初期条件の遅延は必ずしも払拭されたわけではなかった。〈日本=模倣〉の歴史観が執拗に残っていたことも22、コレクティビズムが変容を遂げてオペレーションの基軸として機能し続けたのも、その表れである。

端的に言えば、デ・マリアが個人の作家性を堅持できたのは、50年代からアメリカに台頭した現代美術の市場とパトロネージ(支援)を受けてオペレーションを構築できたからである。デ・マリアの選んだ設置場所はじつにアメリカらしい荒涼たる風景だったが、デ・マリアの立ち位置そのものは極端だったにしても主流の埒内だった。いっぽう、《雷》の設置場所はデ・マリアのニューメキシコ州カトロン郡に比べれば、はるかに温和な茶畑の中であり、京都の郡部ではあるが、本拠地の大阪からは遠くない近場の自然だった。ただ、当時主流化していた現代美術とは一線を画した表現、すなわちオルタナティブを目指して、自前でオペレーションを行ったのであり、その内実は私が〈荒野〉と呼ぶ主流の外側だった23*

ザ・プレイを歴史として回顧するなら、マクロな次元では68年の時点でザ・プレイはコレクティビズムを活動の基本としながら、表現でもオペレーションでも新しい時代のとば口に立っていた。日本の文脈では60年代の現代美術から今日のコンテンポラリー・アートへの転換、欧米の文脈に置き換えるならモダニズムからポストモダニズムへ移行する流れ、そして大きな歴史の枠では、19世紀的オペレーション(アンデパンダン展)から出発して、20世紀的表現(ハプニング)を経て、21世紀的コレクティビズムへのベクトルを提起していた。  これは、奇妙な逆転現象だ。〈周縁〉で〈遅延〉の宿命を背負った日本がコレクティビズムのDIY精神で自前のモダニズムを形成しようと試行錯誤するうちに、コレクティビズム先進国となり、現在の〈コンテンポラリー〉の一側面を先取りしてしまった。複数のモダニズムという歴史観は、モダニズムからのコンテンポラリー・アートへの展開も複数ありうるという歴史観を要請する。さらには現在グローバルな同時性がいっそう緊密になっているとしても、コンテンポラリー・アートが複数ありうる、という前提を忘れては歴史を見誤りかねない、との警鐘ともなる。それが、日本のコレクティビズムの世界美術史における理論的意義である。

*1――これは、私自身が近著『荒野のラディカリズム―国際的同時性と日本の1960年代美術』(Radicalism in the Wilderness: International Contemporaneity and 1960s Art in Japan, MIT Press、2016)で提案したものである。

*2――集団活動の外因を考える、という視点の契機になったのは、昨秋に他界した母親との会話にある。20年以上前の話だが、1994年にアレクサンドラ・モンローの「1945年以後の日本美術―空への叫び」展の英語版が横浜美術館作成の図録を拡充して出版されたとき、私は編集と寄稿で参画した。その成果を見てもらおうと、母親に英語版を見せたところ、中身は全部英語だから読めないものの、「表紙は吉原さんね」と感想を漏らした。私は驚愕して「そりゃあ、具体はこの展覧会の花だから」と応えたところ、「具体って何?」と返してきたため、もう一度驚いてしまった。

よく考えれば、芦屋生まれでお嬢さん育ちの母親が知っていたのは〈二科の吉原〉であって、〈具体の吉原〉ではなかった。この二者のギャップは、母親と私の世代差もあるだろうが、中流階級の文化教養を備えた普通の人と美術関係者(美術史家)の差であるほうが大きいだろう。吉原治良は二科であり具体であるという二重性を、いわば素人の母親に教えられたことになる。

だが、社会のなかのアート、生きたかたちのアートを考えるなら〈素人〉の目をないがしろにしてはいけない。例えば、小津安二郎監督の映画『晩春』で原節子演じる一人娘が、知り合いの小父さんに東京で出くわし、美術団体連合展(毎日新聞社主催)のポスターを見て、しばらく上野に行っていないからと連れ立って東京都美術館に出向くシーンがある。バイオリン・コンサートを聴き、お茶のお稽古にいそしみ、東京と鎌倉を往復する電車で文庫本を読む諸場面からは、戦後日本の中流家庭の子女の文化的たしなみと美術団体の展覧会が無縁ではなかったことがうかがい知れる。小津映画ではもう1本『小早川家の秋』でやはり原節子演じる未亡人が勤めている洋画専門の画廊の壁に日展のポスターが掲示されていて、美術=団体展の連想が見出せる。私の母親が〈二科の吉原治良〉を小磯良平や梅原龍三郎と同じ感覚で知っていたのと呼応しているだろう。

これは、近代美術の大衆化の一側面であり、芸術の外側の一部でもある。

*3――この点について、また本稿の論点の多くは、具体的な事例も含め、以下の英文論考で詳述したので、ここでは概略だけを述べる。Reiko Tomii, “Introduction: Collectivism in Twentieth-Century Japanese Art with a Focus on Operational Aspects of Dantai,” Positions 21, no.2(Spring 2013): pp.225–267.

*4――〈オペレーション〉の概念は、註3の英文論考で提起した。なお、言語の並行性を重視するなら〈運営〉を用いるべきだが、用語としては静的な作品表現に対して、動的な行為・行動のイメージをも込めて〈オペレーション〉を用いる。その意義は60年代を論じるときに明らかになるだろう。

*5――とくに猪木武徳編著による『戦間期日本の社会集団とネットワークーデモクラシーと中間団体』(NTT出版、2008)では、美術団体隆盛の戦間期における諸団体のデモクラシーとの関係が功罪とりまとめて議論され、大きな示唆を得た。

*6――「青木保館長に聞く10の質問」『新美術新聞』2017年1月21日号、1頁。青木保は国立新美術館館長。

*7――これは、北澤憲昭が、文展を「見えない美術館」と形容したのに倣っている。「近代日本美術の成立―文展の成立」『日本洋画商史』(美術出版社、1985年)、222頁。

*8――具体の美術団体的性格については、グッゲンハイム美術館「Gutai: Splendid Playground」展図録に寄稿した “An Experiment in Collectivism: Guta’i s Prewar Origin and Postwar Evolution” で詳述した。

*9――具体の時代区分については、ミン・ティアンポ『GUTAI― 周縁からの挑戦』(三元社、2016)を参照されたい。

*10――「VAVAの三つの主張(原案)」『アンデパンダンアートフェスティバル―現代美術の祭典―設立総会における主な経過』( 企画提案=VAVAグループ)2頁に再録。

*11――例えば、戦後すぐに設立されて現在まで続く日本アンデパンダン展が日本美術会の主催であり、1年遅れて出発した読売アンデパンダン展は1963年を最後に中止されたものの、読売新聞社がオペレーションを担っていた。京都アンデパンダン展は関西の老舗だが、1955年に京都青年美術作家集団が設立して、57年には会場の京都市美術館を運営する京都市の主催に移管して、91年まで続いた。

*12――この点も拙著『荒野のラジカリズム』で述べている。日本における現代美術の起源は様々に議論できるが、歴史のどの時点で現代美術の存在と表現様式が明確に意識されるようになったか、という視点から「主流化」を考えた。

*13―― 例えば、新潟のGUNは1967年10月の結成後、東京と新潟で精力的にグループ展とハプニングなどを連続して行ったが、1年で経済的に破綻し、集団の旗の下に個人で活動する戦略に転換した。この閉塞状況を逆手に取って、集団としては雪のイベントや「郵送戦線」のアイディア、また個人としては堀川紀夫の石によるメール・アートや前山忠の政治的アートなどをDIY精神で繰り広げていった。本文で述べているザ・プレイとは別のコレクティビズムのかたちである。

*14――『アンデパンダン・アート・フェスティバル・ニュース―長良川畔の使用上の問題点について―運営経過と制作上のイメージ』第2号(1965〜66頃)。

*15―― これら2作品は、東野芳明(『美術手帖』1965年10月号)、赤根和生(同前)、池田龍雄(『芸術新潮』1965年10月号)の展評などで評価された作品でもある。

*16――このふたつの糸については次を参照のこと。富井玲子「初期プレイの「ハプニング」―世界美術史からの一考察」『THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ』展図録(国立国際美術館、2016)。

*17――ここでの〈プロジェクト〉は、川俣正の用語に触発されて日本のソーシャリー・エンゲイジド・アートを議論する際に使われている言葉である。アトリエの内側で制作される自律的な〈表現〉ではなく、アトリエの外側で、外因を取り込んで広がりのあるかたちで制作されるポスト近代の〈表現〉を指すと、私は考えている。〈プロジェクト〉論については、以下註19参照のこと。

*18――ザ・プレイが2014年に刊行した作品集『PLAY』(BATおよびプレイ)によると、その時点で核になるメンバーは5人、そのほかに122人の個人、13機関、さらには過去の作品集刊行にも関わった翻訳者4人の名前がグループ関係者として挙げられている。

*19――ソーシャリー・エンゲイジド・アートやコミュニティ・アートについては、Justin Jestyが責任編集を務めるオンライン学術誌『フィールド』(http://field-journal.com)の特集 “Japan's Social Turn,” Field, no. 7 and 8 (Spring and Fall 2017)に詳しい。日本における〈プロジェクト〉の考察としては、加治屋健司の “Japanese Art Projects in History” もこの特集の一部である。

* 20――この点については註19の特集に次の英文論考で詳述したので参考にされたい。Reiko Tomii, “Localizing Socially Engaged Art : Some Observations on Collective Operations in Prewar and Postwar Japan,” Field, no.7(Spring 2017).

*21――1960年代美術の〈国際的同時性〉(international contemporaneity)と〈響き合い〉(resonance)については、拙著『荒野のラディカリズム』を参照されたい。

*22――60年代における〈模倣の言説〉については次を参照のこと。Reiko Tomii, “The Discour se of (L)imitation: A Case Study with Hole-Digging in 1960s Japan,” in Globalization and Contemporary Art , ed. Jonathan Harris (Wiley-Blackwell, 2011).

*23――〈荒野〉の概念については、拙著『荒野のラディカリズム』を参照されたい。

本記事は、『美術手帖』2018年4・5月合併号「アート・コレクティブ」特集記事より転載したものです。なお、本稿で論じられているオペレーション論については、戦後美術を通して考察した『オペレーションの思想――戦後日本美術史の見えない手』(イーストプレス、2024年11月刊行)もあわせてご参照ください。

本記事の掲載にあたり、筆者の富井玲子先生ならびに『美術手帖』編集部のご厚意とご協力に、心より感謝申し上げます。

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富井玲子(美術史家)

1988年テキサス大学オースティン校美術史学科博士課程修了。以後ニューヨーク在住、国際現代美術センター(CICA)の上級研究員を経て1992年より無所属、グローバル美術史を視野に収めて日本の1960年代美術を中心に研究。「ポンジャ現懇」(ponja-genkon.net)を2003年に設立、主宰。出版多数。英文単著『荒野のラジカリズム―国際的同時性と日本の1960年代美術』(MIT大学出版局、2016年)ロバート・マザーウェル出版賞を受賞(2017年)、同書をもとに「荒野のラジカリズム―グローバル1960年代の日本のアーティスト」展をジャパン・ソサエティ(ニューヨーク)で企画開催(2019年)。日本語単著に『オペレーションの思想―戦後日本美術史における見えない手』(イーストプレス、2024年刊)。令和2年度文化庁長官表彰(文化発信・国際交流-日本美術研究)を受賞。

ポートレート:穂原俊二